夢拾い代表世話人 上野 和浩
「夢」とはゴミ、「拾い」は「手(偏)を合わせる」と漢字で書く。「夢拾い」は、広島県東広島市の上野和浩さん(62)の「ひとりゴミ拾い」を意味する造語だ。始めて11年、上野さんの思いに共鳴して全国42支部(人)に広がり、鍵山相談役も「夢拾い」の相談役として応援されている。
570回目に参加
3月20日「春分の日」午前4時45分、早朝の寒さで身心に気合いが入る。ところは、「旧西国街道・旧山陽道」の宿場町、賀茂鶴・白牡丹などの有名酒蔵が軒を連ねる西条町。街道と並行する山陽本線西条駅前の和菓子屋「さくらや」の前で、上野さんが掃除の準備をしていた。仲間が集まってくる。
全員が「恩返し」と「恩送り」のミッションを唱和して、始まる。それから、一人ひとりゴミ袋を手に約2・5㎞四方に散り、1時間半ほど夢を拾う。アメリカ人イーサンさん夫婦は、川の土手に下りた。他の人は他の場所に夢を拾いに行く。皆さん戻って、夢を分別する。ビン・カン・ペットボトルのフタや包装をはずして洗う。最後に輪になって、全員が感想を発表する。気づいたこと、良かったことなどの「プラス言葉」を語ることにしているそうだ。終了後、メンバーのパン屋さんに所をかえ、話を聞いた。
吉盛真治・寿未さんご家族は、バス停のごみが気になっていたときに、駅前の電光掲示板で「夢拾い」の案内を見たことが参加のきっかけだった。親子孫の3代で130回参加している。6才の晴ちゃん、2才の明ちゃん(写真、雨中のガードレール磨き)はみんなのアイドルだ。
市野光枝さんは、散歩途中に「夢拾い」をしている人を見かけ、「どうせ歩くなら」と始めた。「夢をひとつ拾えばきれいになります。統計調査員として一軒ずつ訪ねる仕事も、『一』の積み重ね。これからも『一』を大事にしたい」と話した。
なぜ「夢拾い」か
上野さんは言う。「ひとつ拾えばひとつ夢に近づくんです。幸せは足元にあることに気づいたのです」「夢拾いは、『させて頂く』という感謝の気持ちでします」
ごみに感謝して拾えるかどうか㆐これは心みがきになる。「感謝します」「ありがとう」「おかげさま」のプラス言葉を口ぐせにし、無心無欲であらゆるものを拾い、感謝の種まきをするのが「夢拾い」だという。
「雨でも雪でもやります。ごみさんはお話はできないけど、何かメッセージをくれます。それを感じ取れたらと思います。3人で始めました。45㍑の袋が10袋になりました。行きは楽しく会話しながらでしたが、ひとつずつしゃがんで拾っていたら、帰りは無口になりました」と笑う。
試練の連続により気づく
上野さんは、1958年(昭和33)この町の兼業農家の長男に生まれた。学校ではハンドボール部で活躍し、1981年(昭和56)、大阪の会社に就職した。しかし、突然父の会社が行き詰まった。田畑・資産を売り、自宅は差し押さえられ、取り立てのヤクザに取り囲まれる父を目の当たりにした。
3年後、上野さんは両親を助けるために父の会社に帰った。毎月100万円の返済には心が凍りついた。丸坊主になって、朝6時から夜中の12時まで、盆と正月以外363日働いた。ワイヤーの出たタイヤの車で走り回った。奮闘努力するものの結果はなかなか出なかった。
1991年(平成3)、33歳で結婚。経営の勉強はしたが、結果は出なかった。翌年7月、ハガキ道の坂田道信さんの紹介でイエローハット八本松店のオープンに行き、偶然長男がくす玉割りに選ばれたことがきっかけで、鍵山相談役と複写ハガキの交流が始まった。
1995年(平成7)10月15日、広島市の井辻栄輔さんらが立ち上げた「広島掃除に学ぶ会」に参加し、複写はがきに加え井辻さんにマトリックス会計を教わり、ようやく経営が順調に回り出した。広島県警の岸本栄光さんは、暴走族対策で広島掃除に学ぶ会とのパイプ役をされており、大変お世話になった。
2009年(平成11)7月、51歳の時に試練がおそった。高校1年生の次男が、悪性リンパ腫にかかっていたのだ。日々病状は悪化し、死の宣告を受けた。痛みがひどく、モルヒネを投入し、まつげ、まゆげ、髪の毛がすべてなくなった。白血球が急減し、ICUに収容され、ついにはゼロになった。「神様、どうか助けてください。私の命をお使いください」と、ひたすら祈った。次男は奇跡的に回復した。とはいえ再発を恐れる毎日で、目安の5年が過ぎても心配は続いた。上野さんは、祈りと誓いを胸にしまいこんだ。
「治ったと思ったのに再発して亡くなる方もいる。そのような方々の苦難を通して医薬が良くなり、調合や投薬タイミングが工夫され、息子は生き延びています。当たり前に朝は来ません。回復できたのは、私の祈りではなく、医療関係者はじめ、みなさんのお力のおかげです。そして人間の力を超えた大自然の生命の調和の中で生かされていると気づいたんです」
「つらいこと、たいへんなことを経験しましたが、それも受け取り方です。これらの意味を感じ取り、プラスにすることです。私は何とか良い方に向かうことができましたが、地獄を経験した方や回復できなかった方もいます。こうした方々の悲しみ、苦しさに思いを寄せていると、幸せは自分の足元にあるのだと気づかせてもらったんです」
「夢拾い」の誕生と広がり
上野さんは、「恩返し」を決意した。2010年(平成12)7月3日、大きなことより足元からと、まず生まれ育った東広島市で、足元の「ごみ」を「ごみ」ではなく「夢」とし、それを拾うことで恩返しを始めたのだ。
同じ志をもつ仲間は、毎朝ひとりでそれぞれの「夢拾い」を続け、毎週土曜日に集まる。吸殻や空缶などのごみが散乱し、草ぼうだった西条駅前ロータリーや路上は、この11年で見違えるようにきれいになった。そして全国に仲間ができた。
「全員が支部長です。『夢拾い』はひとりがベストです。一人ひとりが豆電球。ひとりが光り、みんなが輝く。だけど一人では生きていけませんから、集まって支え合います。あえて広げようとはしません。気づいた人が、ご自身のやり方でやればいいのです」
箸よく盥水を回す
上野さんは、参加者とのご縁を複写ハガキで深めている。「夢拾い」を体験した仲間は、支部を各地に広げていった。嬉しいのは、若い人や子どもさんの参加が増えていることだ。小さな子が、大人の捨てた吸殻を拾う。子どもは、そこに東広島市、いや日本と世界の未来を見ている。
上野さんはこの11年を振り返る。「『夢拾い』で学んだことは『箸(はし)よく盥水(ばんすい、たらいの水)を回す』という言葉です。私はその『箸』になりたいと思ってきました。東広島市は、世界平和を願う広島県の中央です。ここから『箸』を回し続ければ、世界平和につながります」
(取材 編集室)(739-0007東広島市西条土与丸3-1-15)