『台湾流通革命』
佐宮 圭 ちくま新書
台湾美化協会創会理事長徐重仁氏(1948~)。徐氏はコンビニエンスストア(以後、コンビニ)事業で成功した実業家、ということは掃除関係者に広く知られていますが、その内容や生き方、考え方などまで知る人は多くないと思われます。
7月発行の徐氏の自叙伝ともいうべき本を紹介します。(編集室)
「台湾流通の父」徐重仁の功績は、「事業の成功」と、「人材の育成」を行ったことだ。資本も後ろ盾もなく、これらを成し遂げた話には、多くのヒントが含まれている。
徐の経営哲学
徐は、「仕事はもうけるためではなく、お客、社員、関係者が幸せになるためにある」と考える。「日本に学ぶ」姿勢を貫いたが、日本企業の台湾進出失敗も見て、「現地化」が大切であると考えた。
日本留学
父は、「商売で身を立てたいなら日本に行け」と言った。1973年徐は旅立った。学びたい講座のある大学を2度失敗した。アルバイトによる疲労と睡眠不足、受験の重圧と将来の不安でどん底だった。
徐は日本を見て、「将来台湾もこうなる」と確信した。その年、セブンイレブン第一号店がオープン。徐は、小売りの最新ビジネスモデルに興味を持った。早稲田大学の「物流経済」を受験し入学した。
徐27歳、「日本の繁栄を象徴する流通経済を持ち帰り、台湾の発展に寄与する」という人生の目標を胸に刻みつけた。
コンビニ事業を失敗し左遷
4年4か月ぶりの台湾は何も変わっていなかった。統一企業創業者高清源(48)に、自社への入社を勧められ、徐(29)は申し出を受けた。
コンビニ事業が承認され、1978年子会社「統一超商」設立。翌年14店が同時オープンした。
事業は赤字が続いた。敗因は、物流効率の良い「集中出店」の意義が、社内でまったく理解されなかったことだ。路地などに出店したこともあった。
1982年統一超商は解散、統一企業の一事業部に入った。徐はパン工場に左遷された。事業完全撤退を迫られた2年後、徐は高社長に呼び戻され部長に任命された。最後のチャンスだった。
リベンジの経営
徐は失敗を振り返り、北部に集中出店した。さらに、ターゲット顧客を若者、ビジネスパーソンとし、繁華街やオフィス街に出店した。この見直しは、見事的中した。1986年黒字化達成。1987年再び「統一超商」設立、徐は39歳の若きサラリーマン社長となった。「成功を確信していました。日米を見習って、台湾に合う方法を考え出せば、失敗しません」
独自のフランチャイズ戦略
「本部が一方的に稼げば、加盟店はやめる。私の理念とは合わない」 徐は、理由がある加盟店には、必要な補助金を出した。「一番大切なのはお客様。お客様との接点は加盟店。本部と加盟店が尊重し合わないとうまくいかない」
IT戦略
EOS(電子受発注システム)とPOS(販売時点情報管理)は、コンビニ事業に不可欠だった。1995年、台湾小売業初のPOSシステム導入がスタートし、翌年全店導入した。導入コストも大きく、その重要性が理解できる者が社内にほとんどおらず、反対意見も多かった。後押ししてくれたのが高会長だった。
物流戦略
徐は「物流センターをつくらないと、コンビニビジネスはできない」と主張したが、役員には理解できなかった。徐は、分社化したり、日本企業も巻き込んだり、パレット統一や商品小ロット化などの開発をおこなった。これらは大成功をおさめ、物流革命の嚆矢となった。
人材育成
徐は、経営者を何十人も輩出した。社長選びはキャリアや知識より、「品徳」「やる気」「学ぶ意欲」を挙げる。「品徳がありまじめでやる気のある人は、未経験の役職でも学んで自分のものにします」