ゴミゼロへの挑戦(3)
東京都 鈴木 武
『一日一センチの改革』致知出版社
窓際社員だった鈴木武さんが、1993年にゴミ担当を志願し、ゴミを資源化する努力の結果、成果が出てきた。3年目にNHKで全国放送され、5年目には松下本社の社長が視察に来た。勤務会社のゴミリサイクル率は99%に達し、業界もこれに追従し、「ゼロエミッション」という言葉がはやった。
2002年3月定年退職。その後もゴミゼロへの挑戦は続いた。鈴木さんは、この人生を「充実度250%の人生」と呼ぶ。
『一日一センチの改革』とは、「周りの誰も気がつかないが、5年、10年経ってみると、大きく変わっている」というやり方だ。
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ゴミ問題の改革がもたらした
「三つの改革」
努力が実り、次第に排出物資源化の成果が出始めました。
第一 それまでほとんど皆無だった、松下通信工業の排出物リサイクル率が99%になりました。つまり、排出物の99%が資源化されて、文字どおりの「ゴミ」が1%にまで減ったのです。
第二 企業にとって「環境問題は金がかかる」という一般概念を、大きく打ち破ることができました。実際年間2億円かかっていた会社の排出物処分コストが、なんと1億円以上も節約できました。ゴミを資源化し、しかもコスト削減ができたということは、企業の大きな関心事でしょう。
第三 排出物の処理だけでなく、排出物そのものの「発生抑制」もできたことが大きい。
企業は、事業拡大に伴ってゴミも増えるのは、当時の日本の常識でした。ところが当社は、生産販売額は上昇していましたが、排出物は増えず、反対に「右肩下がり」に減っていきました。
この事実は、当時は衝撃的なことでした。なにしろ従業員1万人を超える松下通信工業が、ゴミを99%削減し、しかもその処理コストを半分以上削減したわけですから、「ありえない、一度見に行ってきなさい」というのが一般的な見方でした。
松下本社社長との握手に感動
マスコミが「松下通信工業がゴミの99%リサイクルを達成した」と騒ぎ出し、それを聞きつけた松下電器の社長が、「現場を見たい」と見学に来られたのは、忘れもしない1998年9月30日(写真)。
「松下電器本社の社長がお越しになる」ということで、佐江戸工場は大騒ぎになりました。
案内したのは、松下通信工業社長と私の2人。資源置き場のたくさんの分別物を前に、「これはごみではなく、大事な資源です」という私の言葉に、本社の社長は「ああそうか」とうなずいた。
最後に生ごみ乾燥機にご案内し、「食堂から出る残飯は、すべてこの機械で乾燥し、できた堆肥を近所の農家にプレゼントしています。有機野菜をつくる肥料になります」と説明しました。
本社社長は「よくできている」とお褒めの言葉をいわれ、「握手」といって手を差し伸べました。私の手には泥がついていたので、「手を洗ってきます」というと、社長は「いや、そのまま、そのまま」といって、私の手をギューッと握りしめました。私は、感動がこみあげてくるのを抑えることができませんでした。
ゴミゼロ、松下グループに広がる
翌年の松下グループの経営方針発表会でのことです。私は会場の後ろの席で、本社社長の発表を半分居眠りしながら聞いていました。1時間半くらい経ったころでしょうか、突然「去年、佐江戸工場に見学に行って…」と言われました。私は驚いて目を開きました。
何と本社社長は、グループの経営方針の発表に「松下通信工業の佐江戸工場では、ゴミ問題に関して、すごいことをやっている」と異例の報告をされたのです。
それ以来、まるで雪崩を打ったように、松下グループ全体のゴミ問題に対する関心が高まりました。
私が定年退職した2002年には、松下グループ全体で、排出物98%を資源化するという「ゼロエミッション」を達成したのです。一窓際社員がそのきっかけをつくることができたことを誇りに思います。
電機業界も松下の活動を手本に
意外と知られていませんが、電機業界は、松下の成功に刺激されて、省資源問題の取り組みを本格化させました。
1992年、ブラジルのリオで「地球サミット」が開かれ、世界172カ国の首脳などが集まり、人類の生存のための「持続的な開発」の具体的な行動計画「アジェンダ21」が採択されました。
日本政府はこれを受け、通産省が国内主要業界団体に対して、環境保全のための自主的計画「ボランタリープラン」の作成を求めました。それは、「1991年のゴミ排出量を100とし、95年にその半分の50、2000年にはさらにその半分の25にしよう」というもので、これに沿った計画を作成しなさい、ということでした。
当時の電機業界は、ゴミの削減といわれても10%か20%がいいところで、それ以上は難しいという状況でした。業界の会議に出席したときに、私が「当社の排出物は、10%以下が目標です」と話したら、出席者はみなびっくりしました。その後、松下通信工業の取り組みが、電機業界に波及していったことは確かだと思います。
「知っていること」を
本当に実行するということ
私は、1993年の環境部門への異動から退職までの8年3か月、排出物の資源化に取り組むなかで、松下幸之助さんの「精神は頭の中にはない。身体のすべての細胞の中にある」という教えに目覚めました。つまり、幸之助さんの立ち居振る舞いそのものが精神であり、大切なのは言葉ではないということです。
「人類がぶつかる最大の問題は、いつ学ぶかではなく、既に知っていることをいつ実行するか、ということである」
これが私がたどりついた最高の言葉の一つです。「実行」という部分が最も大事だと思います。
ところが、この言葉をいう人も聞く人も、この「実行」をしていません。頭で建前は話しても、首に文字どおり「ネック」がありますから、その下の心の部分で本音を語れないのです。したがって足も動かず、実行が伴わないのです。
定年退職を前に
2002年定年退職。地元の目黒を起点に、ゴミゼロが日本、世界に広がっていけばすばらしいなあという漠然とした夢を抱いており、ゴミ処理のアドバイスなどで細々生計を立てていこうかと思っていました。
しかし私の活躍の場は大きく広がりました。
横浜市長・中田宏さんとの出会い
3月31日、私の定年退職の日に横浜市長選挙があり、大方の予想をくつがえして、中田宏さんが当選しました。松下政経塾出身の中田さんはゴミ問題をテーマにしていて、「ゴミの中田」という異名をとっていました。
私はこれから何をしようかと考えていたころであり、「よーし、定年後は中田宏さんを応援しよう!」と、勝手に決めてしまいました。
その後、中田市長から「横浜市のゴミを減らしたい」と相談があり、私は350万大都市横浜市のゴミ削減に全力で取り組むことになるのですが、これは別の機会にでも…。 (完)