日本を美しくする会 30周年記念大会
岐阜県大正村での誕生から30年。「日本を美しくする会」は30周年記念大会を開催しました。
鍵山幸一郎氏の話や動画で「30年を振り返り」、若い人も入ってのパネル討論で、「掃除道の未来」について考えました。
1日目の式典に435名、2日目新宿歌舞伎町街頭清掃(表紙写真)に414名、延べ849名。うち台湾から50名が参加されました。
鍵山秀三郎相談役や多くの掃除人が現場を離れ始められた昨今、「掃除道」発展のために、私たちは自立し活動を継続発展させると同時に、若者の成長に期待するという方向性でした。
おやじ鍵山秀三郎を語る 鍵山幸一郎
父は現在老人介護施設で生活しています。相田みつを先生の言葉「口ではなあ」を座右の銘としていますので、口先でこの先どうしてほしいと、皆さんにお伝えすることはしません。ご理解下さい。
父は、イエローハットを上場させたこと以上に、掃除の輪が広がったことを誇りに思っています。常日頃、父が考えていると思われることを3つお話しします。
まず、①父の「心願」です。「私の願いは、学校長の理解を得て、職員先生やPTA、そして地域の方々のご協力を得て、各地の学校のトイレを徹底してきれいにすることです」 これこそが美しくする会の原点と考えてください。②掃除の会で生まれた縁を大事にしてほしい。③掃除は何のためにするのかというと、それは未来のため、子孫のためにする、ということです。
父の想いを忘れないためには、著書を読み返したりすることに加え、山口の朴の森・鍵山記念館をお訪ねください。
最後に、裏方に敬意を払う生き方を、父はいつも見せてくれました。ご自分の仕事がありながら、準備に当たってくださった皆さまに深く感謝します。
「シン時代の掃除道によるさらなる凡事徹底へ」
開会挨拶 会長 利 哲雄
本日は全国や海外からも多くの方に参加いただき、また日頃から日本を美しくする会の活動にご理解ご協力をいただきまして、誠にありがとうございます。
会長在任7年、多くのトラブルや新型コロナ発生などによる困難がありましたが、今年は『掃除道』発刊や海外研修が復活しました。
掃除の本質は「心磨き」です。掃除に学ぶことで世の中を良くしましょう。そのために若者を応援しましょう。当会へのさらなるご支援をお願いして、挨拶とします。
パネル討論 (1部)
―鍵山相談役や掃除との出会いをお聞かせください。
【野田】 39~42歳で落選し、グレかかりました(笑)。松下政経塾の恩師上甲晃先生から鍵山相談役を紹介され、千葉掃除に学ぶ会を知りました。地べたに腹ばいになって掃除している人を見て、自分は上から目線じゃなかったのか、などと気づくところが一杯あり、私の政治人生も変わってきました。
『掃除道』にも書きましたが、相談役の後ろ姿を見て鳥肌が立つような感動を受けたり、掃除には大きな影響を受けました。
【石坂】 産廃処理会社経営20年目です。当時従業員の心も荒み、ないほうがよい会社でした。10年目ごろ鍵山相談役とお会いしました。相談役は社員にもやさしく接せられ、大会社の社長がこんなに腰が低いんだと驚きました。
【利】 IT会社です。バブル後に大きな試練があり、相談役に掃除のご指導をいただいて、助かりました。
―相談役の思いをどのように伝えていくかや、日本を美しくする会の方向性をお聞かせください。
【野田】 細川護熙さんに座禅を勧められてやりましたが、ことごとく失敗しました。人事は、票読みは…などの煩悩ばかり出るんです。ところが、掃除をしている間は「無心」のことが多かったです。
掃除は、座禅よりよほど効果があると感じました。若い人にどうこの体験をしてもらうかに、知恵を絞ることではないでしょうか。
パネル討論 (2部)
―ご自分の活動の紹介、そして今後の会のあり方についてお聞かせください。
【時政】 鍵山相談役の本を読んでからです。今掃除11年目で、2019年に京都の代表になり、毎週末木屋町を掃除しています。
【秦】 掃除7年目です。鞍馬寺の公衆トイレが初参加で、素手の掃除に衝撃を受けましたが、終わると気持ちがすっきりしました。「家族のように温かい」「ありのままの自分を受け入れてもらえる」ような寛容な雰囲気を意識しています。
【鈴木】 岩手掃除に学ぶ会所属です。数年前に参加したトイレ掃除には嫌な印象しかありませんでした。又川俊三氏に紹介された相談役の本を読んだりしました。会計事務所経営で、今は社員と地域清掃をしたり、自宅兼事務所のトイレを掃除しています。
【新福】 5年くらい前好奇心で新宿の街頭清掃に参加し、温かくていい人ばかりだったので1年くらいやりました。ラーメン店など3店経営しており、自宅近くの新浦安で街頭掃除を始めました。私はただの掃除ではなく、相談役の熱い情熱や言葉に導かれて続けています。子どもにも伝えていきたい。
【時政】 若者に声をかけ、「掃除研修」をおこなっています。私は相談役に数回お会いしましたが、若い人はその経験はありません。そこで相談役の思いのこもった「朴の森」で、研修を4回やりました。それ以外に、各地持ち回りで開催しようとしています。
「相談役の生き方に学ぶ」を軸とし、「自分たち自身で研修を主催する」ことにも学びがあります。まず自分を高めたいです。
【石坂】 話を聞いて「何を心配することがあるのか?」と感じました。相談役の思いの詰まった30年の歴史をつないでいくことは、若い皆さんにしかできないと思います。
「鍵山掃除道」動画 抜粋
「一人の百歩より百人の一歩」 (2006年)
私が百歩進むより、百人の方に一歩ずつ進んでもらう方が良いですね。その先頭に立ってくださる方々が、立ちやすい環境をつくっていく。これが私の役割だと思っています。
傲慢な人が人に感謝することはありませんね。一生幸せになることはないでしょう。真の幸せは、何事にも感謝できて、そして人から感謝される生き方です。こういう中から本当の幸せが生まれますね。
この会の趣旨は、学校などの施設をお借りし、掃除をさせていただいて、そして自分たちの精神を磨くことです。そして、知らず知らずのうちに自分の心が磨かれていくのです。この趣旨から外れずに、やり続けていただきたいですね。
「毫釐(ごうり)の差は千里」 (2009年)
髪の毛一本の差が、やがて千本の差になる、わずかな差が大きな差になるということですね。私が吸殻一つを見過ごして、排水路に入り川に流れ込みますとね、何百年経ってもそこにあります。
崩壊状態であった学校が、3回のトイレ掃除で立ち直り、モデル校といわれるようになったり、こんなことが方々で起きてまいりまして、この会の意義は大きいと思うんですね。
「会を育てるために協力を」 (2014年)
おかげさまで全国組織になりました。私も80歳を過ぎますと、体力は衰えます。徐々に一線から引いて、皆さん方に会の活動を守っていただきたい。
そのためには、いろんな意見はおありでしょうけど、「掃除をどうやって広げていくか」のために、少々の個人的なことはおいて、日本を美しくする会のためにやってほしいですね。
どういうことかと申しますと、会からいろんな案内をしますし、そして皆さんからお返事をいただくこともあります。そういったことを、きちんきちんとすることです。そうでないとですね、ご案内が届いたかどうかわからない、お返事もない‥。こういうことは会の趣旨とは違うと思うんですね。そういうことを含めて、きちんとできることが大事だと思います。
「良樹細根 高樹深根」 (2014年)
木村秋則さんは、木の幹や枝や葉っぱよりも、土に着目されたんですね。そして成功されたんですね。日本の国も、経済がないと国は成り立ちませんけれども、それと同じくらい大事なことは、国民性ですね。残念ながら、日本の国民性は、良くなっているとはいえないですね。いろんなことから感じるんです。
掃除でいえば、どのようにきれいにするかということもあるでしょうが、例えば道具です。どのように使ったら、道具が傷まないかとか、道具が悲しまないかとか。
また暑い日寒い日など、本能に逆らった条件で掃除をすることもあるでしょう。そんなときに感じること、学ぶことを大事にしていただきたいと思います。
「光の当たらないものに光を当てる」 (2015年)
今日本の社会は闇ですね。人間はどんなに苦しくても、先が見えていれば生き生きとするんですね。私はそんな中でも、たえず一条の光を自分で見つけて進んでまいりました。
国を良くするためには、何かに依存していてはだめです。何かに頼っている間は、一時的に良くても、必ずダメになるということは、私の人生観です。
光の当たっていないところに光を当てることが、私のやり方ですね。例えば農産物でも、手間をかけてつくっても売れなくて困っている。そこで私が買ってほかの人に紹介したり。
「どんなに小さなことでも地球環境に良いことを」 (2021年)
私には、世の中を良くするという遠大な人生の目標がありますね。ところが一方、やっていることといえば、人が見過ごすような小さなことを大事にしているんです。
たとえば、段ボールの梱包についてきたセロテープですね。爪先程度の小さなものでも、きれいにはがしているんです。それはね、小さくても残っていれば、全然取らないのと同じなんです。
それからホッチキスですね。リサイクルに出すときには、全部取って出すんですね。送り状に付いているカーボン紙、これらはすべて取り、まったく異物がないようにして再生紙に出すんですね。
私という人間が、地球上に生きていることが、環境にとって良いか邪魔になるか・・。私は、自分が生きているということが地球環境を良くするという考え方でやっています。地球環境を汚したり損ねたりすることは一切しないということが、私の生き方です。
【動画視聴】
以下をクリックください
①「日本を美しくする会」ホームページ
②「30周年記念大会」バナー
③「30周年記念大会特別映像」YouTube
ひとつ拾えば
作詞 日本を美しくする会・佐野碧 作曲 佐野碧
この先に何があるかはわからないけど
一つのゴミは僕にも拾える
もし世界中一人一人が拾ったならゴミを拾ったら
世界はどうなる?
いつも見ているものに心がah似てゆく
ひとつ拾えば、ひとつ綺麗になってゆく
ほんの小さなことがいつかひとつ気づけばひとつ
心が大きくほんの小さなやさしさが
La La La
知らなかったよ自分よがりだったけれど
誰かのために思いやる喜び
小さい頃お世話になった公園に大人になって恩返しするよ
心あるところに宝物があるから
ひとつ拾えばひとつ綺麗になってゆく
ほんの小さなことがいつか
ひとつ気づけばひとつ
心が大きくほんの小さなやさしさが
La La La
参加者アンケート 回答62名
記念式典 記念大会 パネル討論
とても感動させられ、多くのことを学ばさせていただいた ▽素晴らしかった!の一言です。あれだけの会を企画、運営されるには、半端ではない準備をされたと ▽野田元首相と石坂社長のお話は興味深く聞きました ▽もっとパネリストに話させたらよかった。
交流会
食べ物もおいしかった。料理もあまり残らずに良かった ▽いろいろな方にお会いしたかったが、探すことができず心残り ▽ダンスは素晴らしかったが、場に合っていなかった。
掃除大会
運営側の仕事の速さにも驚き、多くを学んだ ▽初参加です。活動、後片付けまで見て、感動して涙がでていました ▽都会すぎて感覚が麻痺したかのよう、ゴミ量はすごい ▽道具準備などにご協力くださったシオガイ様ほかに感謝。
全体
至れり尽くせりの心配り、スタッフのご苦労に感謝 ▽鍵山掃除道を、今までと同じように続けるだけではだめと思いました。次世代への継承は、よっぽど考えて工夫する必要がある ▽「シン時代を考える」に対し、会側から具体的な考えや実行策がほとんど出なかったことは残念 ▽高齢者が前に出るのは止めたほうがよい。
踊りで青少年の健全育成を
大阪メチャハピー祭
1990年代、大阪は青少年の非行が日本一でした。このことを心から悲しみ、「何とかしないといけない」と思ったのが、大阪の会計事務所経営の欠野アズ紗氏でした。
1997年、欠野氏は「南中ソーラン」という踊りに出会って大感動し、子どもたちを救うために、「大阪メチャハピー祭」(以後、OHPと略す)を立ち上げました。
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南中ソーランについて
「イジメる奴も嫌いだけど、何もしてくれなかった先生、親も嫌いだ!」。昭和50年代、稚内の深刻な漁業不況が影響して、煙草、シンナー、校内暴力、授業無視など、稚内市立稚内南中学校(南中、大久保慧校長)は、「日本一荒れた学校」と呼ばれました。
学校再生に向け、地域と一体になった取り組みが始まり、南中文化活動発表会でソーラン節をやったものの、現代っ子には面白くない。そこで指導の先生が1991年、歌手伊藤多喜雄のロック調ソーランの歌に新しい振りをつけた踊りにしたところ、子どものやる気に火をつけました。ロケで稚内にきた伊藤は、久保校長に日本民謡民舞大賞への挑戦を提案し、知り合いの舞踏家と踊りを手直しし、生徒を指導・猛特訓しました。
「実にまとまりのない集団でした。ご飯も食べさせずに教えました。天に向かって手を突き上げるんです。生徒の強い抵抗に合わなかったら、こんな強い踊りは出来なかったでしょう」。1992年4位入賞、1993年に見事大賞受賞。南中は立ち直りました。
この話は、映画『稚内発「学び座」ソーランの歌が聞こえる』となり、全国で自主上映されました。
テレビ放映された日本民謡民舞大賞を、YOSAKOIソーラン祭り生みの親が見ていました。
この人物は、1993年の第2回祭りに南中ソーランを招待し、このことが起爆剤となって、YOSAKOIソーラン祭りは北海道の一大イベントとなりました。
大阪メチャハピー祭誕生
1997年、欠野アズ紗氏は札幌でのYOSAKOIソーラン祭りに参加した際に南中ソーランを目にして、強い衝撃を受けました。
欠野氏は、「大阪の子ども達にもこの踊りを」と、まず映画『稚内発「学び座」』の上映会開催で、府教育委員会を巻きこみました。
1999年、踊りを通した青少年の健全育成を目的とするNPO法人の認証を受けました。しかし、金もなければ人もいない、踊れる人もいない、心意気だけの出発でした。資金集めのためにあらゆるつてを頼り、企業を回りました。欠野氏の熱意は関西の多くの経営者を動かしました。ボランティア30人は演舞の特訓をし、各学校に指導に回りました。
2000年11月3日、第一回「大阪メチャハピー祭」。43チーム、600人の子どもと千人の大人が参加しました。審査委員長は、南中元校長の大久保慧氏でした。
踊りを通して青少年健全育成
欠野氏は「メチャハピー踊り子隊」を結成し、これを核として、多いときには年間200日、1日3~4校の学校を訪問、朝から晩まで演舞指導にあたりました。3万人を超える子ども達を指導し、大阪で一番荒れているといわれた学校にも少年院にも行きました。
祭りの運営はすべてボランティアで、年間400人が参加しました。祭りを通じて各地にコミュニティが形成され、その輪は大きく広がっていきました。
暴走族、南中ソーランを踊る
ここで、鍵山相談役との関係について触れます。広島県は長く暴走族の問題を抱えており、2000年前後がそのピークでした。県警警察官の竹内光弘氏が鍵山氏の指導を受け、暴走族対策としてトイレ掃除をおこなっていました。
2001年11月、鍵山相談役は竹内氏に手紙を書いています。「大阪の欠野アズ紗氏が少年少女を正しく導くために『大阪メチャハピー祭』を始められ、第2回にして大成功を収められました。この活動を広島の暴走族に適用したらいかがかと存じます」。
同年、竹花豊氏が県警本部長に着任。県警として暴走族対策に本格的に取り組み、トイレ掃除と南中ソーランに理解を示します。
2002年春、元暴走族リーダー3名と、広島県警青少年課が欠野氏のいる大阪に行き、2日間踊りを特訓しました。鍵山相談役も激励に訪れました。
欠野氏は、広島掃除に学ぶ会の求めに応じて、都合2回広島を訪れ指導し、2003年6月、広島の夏祭りで暴走族による南中ソーラン踊りが実現。暴走族は踊りに踊り、エネルギーを発散させました。
OHPに関わった人たちの声
・資金だけでなく、事務局員、道路使用許可など、困り果てた末に奇跡が起こった。欠野先生の熱い思いが人の心の琴線に触れ、これらの奇跡を引き起こしたのだと思います。(森長敬・会社経営)
・大久保校長は「祭りは人づくりなんだよな」と。企業経営も祭りも人生も、人がメチャハピーになるための活動です。(廣内謙・会社経営)
・欠野さんの子どもの教育への情熱に引き込まれました。(黒川芳朝元大阪府教育長)
・欠野さんのおかげで、広島の子どもたちは救われた。私も支えられた。(竹花豊元広島県警本部長)
・踊りが子どもたちを育て、学校や先生たちをも本気にさせてくれた。(メチャハピー踊り子隊元代表)
・欠野さんはまるで菩薩。その人柄に惹かれ、多くの方がボランティアで関わっている。(小学校校長)
社会の意識の変化とともに
OHP事務局長の黒川弘章氏に、23年間の総括と、これからの思いをお聞きしました。
―「踊りで青少年の健全育成なんてできない」「理念なんか要らない、楽しかったらええ」と言われ続けてきました。ただ楽しいだけなら他にもありますが、私たちは「踊りを通した青少年健全育成」に信念をもって活動してきました。
今では、大阪中の小中学校で「南中ソーラン」が踊られるようになり、高校生で一番人気の部活動はダンス部です。青少年の非行は、20年前から80%激減しました。これは、OHPだけでなくさまざまな活動により、社会全体が「子ども達を何とかしないと」という意識に変わってきたからでしょう。
23年間の延べ参加は63,000人を超え、コロナ禍中のオンライン開催では海外10か国にも広がりました。一方、教師の働き方改革で休日の踊りが難しくなり、学校の参加が減っています。
「感動」と「社会性」がある踊りは、子ども達に必要です。
大阪城ホールのような会場で多くの人の前で、緊張の中精一杯踊り、拍手を受ける大きな「感動」、これは一生の宝物になります。
さらに、力を合わせた仲間やお世話になった先生や保護者への感謝の気持ちが生まれ、「社会性」が養われます。再度学校参加を増やしていきたいです。(以上、黒川氏)
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南中ソーランの生みの親、OHP審査委員長大久保慧氏は、2022年12月に亡くなられ、欠野アズ紗氏は長期の病気療養中です。
思いを繋ぐ黒川氏が大切にしている欠野氏の言葉を紹介して終わります。
「できるかどうかじゃなくて、やるのよ」。「それが目的に向かっているならば、どんな些細なことでも、全身全霊で打ち込むこと、そして今すぐにそうすると、そこで出た結果は必ず、善きことに繋がる」。
(取材 編集室)
参考『トイレ掃除の奇跡』(致知出版社)
『欠野アズ紗随聞記「すべては愛」』(盛和塾北大阪編)