教育と掃除

鍵山教師塾 in 伊勢2024

■日時・内容
 1月27日(土) 13時~24時 
○開講式
○講話 ①佐古利南先生 
②田仲三夫先生
③富永晃輝先生
○反省行・水行
○交流会
 1月28日(日) 6時~12時半
○内宮特別参拝
○講話 ④金大悟先生
○講話 ⑤振り返り 寺岡賢講師
■場所 三重県伊勢市
修養団伊勢青少年研修センター
■参加 29名


  新型コロナにより、公式には4年ぶりの開催であった。4名の先生の講話を聴き、最後に修養団の寺岡賢講師のお話と全員の振り返りの時間が持たれた。
 初日の夕刻、希望者は修養団恒例の「水行」(すいぎょう)をおこなって「みそぎ」を終えた後、冷え切った体をお風呂で温め、交流会に臨んだ。
 今号は「水行」など修養団での研修内容や参加者の感想をお伝えします。先生方の講話は、追っての号で紹介予定。
  (取材・編集 編集室)


水行 (記者体験)
 舟こぎ運動で体を温め(実際は温まらない)、ふんどし1枚で冷たい五十鈴川に入る―研修最大の難関だ。一度経験しておきたいと思っていたが、実際にやると想定以上の水の冷たさにうめき声が出る。
 「五十鈴川 清きながれの 末汲みて 心を洗へ 秋津島人」(明治天皇御製) 声が出ない、呼吸ができない。1分弱だろうか。川から上がると激しく呼吸し、体がかじかんで服がうまく着れない、しばらく体の震えが止まらなかった。
 「みそぎ」といわれ、内在する「いのち」を活性化させるとされる。

水行をした五十鈴川(翌朝撮影)


修養団での研修
・規律を正す
 講義前後正座の挨拶、講義室入退室時の一礼、宿泊室の寝具のたたみ方、トイレでの出船型スリッパの置き方、食前食後の感謝の言葉など…姿勢がしゃきっとする。
・学びの確認
 テキスト「人生ガイド」唱和など


参加者の感想
・尊敬する私の上司が、どんな会で何を学んでいるかと興味があって付いてきました。
・大学生の娘ですが、父がいつもワクワクして行く会とはどんなところかと一緒に来ました。そして、ここが父の居場所なのかと感じてうれしく思いました。私は父の夢(高校教師になる)を叶えてあげたいです。
・生まれて初めて消えてなくなりたいほど心が折れていました。ここに来て心を整えることができました。
・最近心身不調でしたが、みそぎをして死んだつもりで(死ねるほど冷たい 笑)やり直そうと思いました。
・昨年1年ぶりに大谷先生にお会いして、私がやらなければいけないことを大谷先生に負担をかけてきたのではないかと気づきました。ようやく「やれずにはおれない」気持ちになり、今後がんばります。
・今回久しぶりに来てみようと思いました。苦しみや辛いなかで、ともに学ぶ仲間がいると感じました。
 ――仕事や人間関係で苦しく辛いこともあったのでしょうか、数名の方が感極まって話されました。

講話中の田仲三夫先生


鍵山教師塾 in 伊勢の経過
 世話人大谷育弘先生のお話…
 「20年くらい前、寺田一清先生から修養団の「みそぎ研修」を聞いて興味を持ち、宮崎正志先生たちと通い始めました。途中から近隣の学校でトイレ掃除をしたあと、修養団での講習会を開くようになり、2014年靖國神社での開催と合わせ、名前も「鍵山教師塾」としました。私は座禅をしている関係で、毎回「一期一会」のつもりでいます」
 本研修は伊勢で、しかも修養団の研修センターでおこなうことに特徴があると感じました。


【資料】 蓮沼門三と「修養団」
 月刊『致知』1998-1

 社会教育団体「修養団」の設立者蓮沼門三(1882-1980)は、福島県の貧しい農家の生まれで、小さいころから農業を手伝い、高等小学校卒業後福島師範学校を受験しますが、2年続けて失敗します。
 門三は、思いつめて出た無銭徒歩旅行で、「魂が傷つき悩める者を、慰め救済することが自分の使命である」という悟りを得、その後友人の誘いで受けた東京師範学校に合格しました。


一人で掃除を始める
 師範学校は全寮制で、生徒たちは禁止されている泥のついた靴や下駄で廊下を歩き回り、掃除がまったく行き届いていませんでした。
 門三は、美化を舎監に呼びかけたもののよい返事は返ってこず、「天下を動かそうと思う者は、まず自らが動かねばならない」という信念に基づき、一人で廊下の拭き掃除や便所掃除、運動場の草取りを始めました。皆が寝た後や早朝にするために、うるさがられたり、「点数稼ぎをしている」と陰口をたたかれました。
 それどころか、雑巾がけのバケツをひっくり返されたり、きれいに拭いた後をわざと泥靴で歩く嫌がらせにも遭いました。
 1年ほど経ったある寒い冬の朝、剣道の稽古で手にけがをしたまま雑巾がけを始めました。アカギレと傷を負った手で、バケツの水は血で赤く濁りました。そこに一人の学生が通りかかり、バケツの中を見て胸を突かれたのか、「蓮沼君悪かった。俺も手伝わせてくれ」と。掃除を真っ先に妨害した一人でした。


修養団の誕生
 一人の共鳴者から掃除の輪が広がり、廊下を泥足で歩く学生はいなくなり、トイレもきれいになりました。門三はその後、同志と風紀改正会をつくり、食堂の改革、花壇の造成、校内売店の経営などを実現していきました。
 そして1905年、「修養団設立の主旨」をまとめてその必要性を訴え、翌年2月食堂に学生数百人が集まり、修養団の発会式が開かれました。日本における社会教育の源流といわれ、運動に参加した人は戦前だけで600万人を超えたといわれます。
 1907年、師範学校を卒業した門三は尋常高等小学校の教諭になりましたが、3年で退職し、修養団活動に専念します。


渋沢栄一翁との出会い
 1909年、活動費に困った門三は面識のない渋沢栄一先生に応援を頼もうとしました。だが紹介状もない学生は門番に追い払われます。何度訪れても同じでした。そこで毛筆で長さ10mはあったろう長い手紙を書きました。
 手紙は功を奏し、渋沢翁は会うや否や「若い君がよくやっている。できるだけの応援はする」といわれ、財閥の先生を紹介されました。彼らの人脈から、諸先輩の後ろ盾ができ、またそうそうたる青年指導者が運動の同志になってくれました。
 1910年、門三は文部大臣岡田良平先生らを動かし、「全国師範学校長会議」での15分の演説を許可してもらいました。有名な「神経衰弱に悩む諸君!」に始まる大演説は、全国の師範学校長80人の度肝をぬき、設立間もない修養団が一躍教育界に広がるきっかけとなりました。
 1915年、磐梯山麓の湖畔で、指導者と青年が自己研鑽に励む「第1回全国青年天幕講習会」を開くなど、活発に活動しました。箱根での第8回には、当時皇太子だった昭和天皇にご来臨いただき、国民体操(後のラジオ体操)をご覧になっています。
 また1923年の関東大震災では、無料宿泊所や簡易食堂を開設し、日本で初めての組織だったボランティア活動をおこないました。


愛と汗 そして涙の人
 門三は、身長1m56㎝と小柄で村夫子然としていましたが、「愛と汗の人」といわれたように、自ら努力して汗を流し、他人のことを思いやる愛の人でありました。
 門三の故郷に1977年建てられた「愛汗の碑」には、「愛なき人生は暗黒なり 汗なき社会は堕落なり」という門三の言葉が刻んであります。

(若き日の蓮沼門三と渋沢栄一 写真 修養団提供)