教育と掃除

一冊の本との出会いが私の人生を変えた(2)

鍵山相談役の訓え 元山口県公立高校校長 佐古 利南

 ルーズソックスは、取り上げればよかったのですが、問題は化粧と茶髪でした。世間から、A高校は美容学校ではないかと揶揄されるほどでした。
(2024・1・27鍵山教師塾in伊勢の講話に加筆)       (編集 編集室) 

無力な校則と孤立する教師
 教師の教育力低下の要因の一つに、校則があります。1980年代までは細かな規則があったのですが、2つの理由で見直されました。
 細分化過ぎる校則は、子どもを他律的にして好ましくないという理由、そして一部教師による規則を守らせるための稚拙、時には醜悪な対応が、子どもの心を傷つけるという理由です。進歩的知識人からは校則不要論が出て、文部省が校則の見直しを指示しました。
 その後校則には「高校生らしい髪型」などとの抽象的文言が並ぶだけで、生徒は「茶髪はだめってどこに書いてあるん?」「皆やっている」と正当化し、マスコミは「校則は人権侵害」だと問題にし、親は「時代の流れ」と諦めます。教師の腰は引け、荒れる生徒を見ても見ぬふりをし、弱い教師は心を病んでいく。人としてのあり方を教えることが困難になりました。
 授業を妨害し、教師の指導に耳を貸さない生徒に、教師はどう対すればよいのでしょうか。人格的影響力と優れた授業力でというのは理想ですが、暴力には無力です。そして何かあれば、マスコミや親から学校に非難が殺到します。
 教師の指導が効力を持つのは、世間や親の支持があってこそ。教師はそうした支えを失い、校則は形骸化し、強圧的な指導は許されず孤立します。


段階的指導法
 大変荒れていた1960~70年代のアメリカ教育界は、大統領の支持もあって罰則強化で正常化していきました。幼稚園、小学校から、軽い問題にも段階的ペナルティを課し、責任を問う体制です。
 教室内のことは担当教師の責任とされてきた日本では、教師は外に語らず、同僚ですら隣の教室で何が起きているのか知らないことが多くあります。教師が、私語をしたり机に伏して寝る生徒に妥協すると、生徒はますます自堕落になって学級崩壊につながります。
 愛知県K高校は、この指導法で劇的な効果を上げていたと知り、担当教員を派遣して教えていただきました。担任、学年主任、生徒指導主任、校長訓戒・家庭謹慎へと進む、学校全体での段階的指導法でした。

わが校での段階的指導法の実施
 段階的指導法では、一度目の指導で、教師がやさしく注意して指導票にチェックを入れ、2度目で生徒課長訓戒(保護者召喚)、3度目で校長訓戒、4度目で停学という、段階的指導を明示しました。
 マニキュアをしてきただけでも、4度目で停学にした生徒がいます。指導に従わないのでは、責任ある教育を実施できません。保護者の理解も得られました。この制度をきちっと行った結果、見る見るうちに化粧と茶髪はなくなりました。地域では、一日にして茶髪がなくなったといわれるほどでした。
 それまでは個々の教師が、問題を起こした生徒に対してさまざまな指導をしてきて、学校に怒鳴り声が絶えませんでした。これに対して、この指導法はシステムで対応するのです。段階ごとに生徒に言い聞かせ、自分の行動を反省させるのです。文科省は、私が退職した4年後の2006年(平成18)に、この指導法導入の通達を出しました。私たちはその前に、自分たちのやり方で対応していました。ルールを守り、欲望をコントロールする力や社会人の良識を身につけさせることは、子どもを退廃から救うのです。

停学生徒とのトイレ掃除
 「停学」指導した生徒に説諭してもだめでした。本を与えても効果はありません。感動的なテレビ番組の録画を見せましたが、これも反応が鈍い。何をやってもだめで、最後にやったのがトイレ掃除でした。私と2人で黙々1時間、便器をただ磨きます。水垢や尿石まで落とし、ピカピカに磨きあげます。
 生徒は磨きながらさまざまなことを考えるようです。やり終えた子どもの顔は清々しさに満ち、笑顔さえこぼれます。「こんな自分でも人の役に立てると思ったら嬉しかった」など、その日の日誌は雄弁になります。それを読んだ親が感動し、感謝のコメントを書き添えます。
 ある生徒は感想文に、「朝7時にトイレ掃除に行きました。校長先生はじめ先生方が手伝ってくれました。トイレがすごくきれいになりました。こんな自分でも人の役に立てるとわかって嬉しかったです」と書いていました。
 生徒の変化に気づいた担任らが、一緒に掃除するようになっていました。教師が一緒に掃除をすると、「君は大事な存在だよ」というメッセージが生徒に伝わるのです。そして、彼らに共通することは、人の役に立ってありがとうと言われた経験がないことです。人から「ありがとう」と感謝される経験は生徒を変えます。
 ある親のコメント「校長先生が汚いトイレを一所懸命に掃除される姿に感化され、息子も思い切りやったようです。息子は家のトイレ掃除を一回もしたことがないのに、よい経験をしたと思います。何ごともコツコツと時間をかけ、一生懸命にやることに大きな意味があるという真意が息子に伝わったかと思います」
 トイレ掃除の業者委託を主張する人もいますが、学校での清掃活動をもっと重視すべきです。

生徒とトイレ掃除(イメージ画像)

子どもの心を育てる注意の仕方
 ある学校でトイレに貼り紙がありました。「こんなバカなことをしたのは誰だ!」 大便器に給食のパンが捨てられていたらしいのです。私は、こうした威喝の言葉、見せしめ的行為は、生徒の心にどのように影響を与えるだろうかと思いました。
 ところがある中学校では、「トイレにはそれはそれはきれいな女神様がいるんやで・・・」の『トイレの神様』(唄 植村花菜)の歌詞の貼り紙がありました。聞けば、新採の女性教師が書いたものとのこと。なるほど、新採の女性ならではの見方であり、このような柔らかな言葉が子どもの心を素直に育てるのだと思いました。
 鍵山相談役は、「人は家風・校風・社風で育つ」といわれます。「場を整える」ことは、新しい教員や高齢の教員でも誰でもできることであり、大きな教育力を持ちます。
 掃除は、退職の日までの4年間続けましたが、心が清々しくなり、悩みが消え、迷いが吹っ切れます。ゴミを拾う、玄関の靴を揃えるなどの小さなことでもやり続けると、自己肯定感を持つことができます。掃除は、掃除する人の心を整え、そこで生活する人の心を浄化します。

退職とその後のこと
 私はA高校での4年間の校長在任で定年退職しました。公立高校の受験倍率は、通常1.1~1.2倍なのですが、これが2.5倍になり「県内普通科でトップ」と報道されました。この学校の定時制の卒業生14名が、最後に校長の授業を受けたいとのことで実施しました。
 全日制の生徒たちが、花束と共に、「校長先生が私たちの学校の校長であることが、私たちの何よりの誇りでした」のメッセージをくれました。教師人生でこれほどうれしく思ったことはありません。私の30数年間の教員生活が進学校だけで終わっていたら、荒れに対応する先生方の苦労は何も知らず、鼻持ちならない評論家の教員で終わっていたろうと思います。
 退職後「岩国掃除に学ぶ会」を発足させ、各地の学校でトイレ掃除の活動を続けてきました。会のユニフォームの背中に書いた『凡事徹底』という4文字には、実に深い意味が込められています。
 トイレ掃除という凡事を徹底することで、言葉による説諭では何ら変わることのなかった子どもたちが大きく人格的変容を遂げていったのですから。
(740-0035山口県岩国市海土路2丁目86-12)