SDGsと経営

ゴミ削減プロジェクト「横浜G30」


 行政主導によるゴミ削減(3) 参議院議員 中田 宏

 1993年(平成5)、日本新党から衆議院議員に初当選しました。二世でもない私が国会議員として国政で活動する機会を得たのです。1年生議員では大きなことは出来ませんが、ゴミの問題には当初から頑張って取り組みました。

容器包装リサイクル法制定に尽力
 1995年、容器包装リサイクル法が成立し、段階的施行を経て2000年から完全施行されました。昭和の高度成長期から平成のバブル期、ゴミは増え続けました。最終処分場はひっ迫し、家庭から出るゴミの約6割を占める容器包装の減量が必須でした。
 同法はこうした問題を背景に、商品を包んでいる容器や包装材を減らすとともに、資源の有効利用を目指した法律です。例えば、歯を磨く歯ブラシを買えば、プラスチックケースもついてきます。スーパーで食品を買えば、トレーや箱に入った食品を個別にビニール袋に入れ、精算時には他の商品と一緒にレジ袋に入ります。何重にも包む過剰包装も問題でした。
 容器包装リサイクル法は、容器や包装材について製造者や販売者にリサイクルの義務を負わせるものです。事業者は自らリサイクルするか、委託料金を払うなどして、その費用を負担します。
 地方自治体は分別回収の仕組みを構築・実施し、市民は排出を抑制するとともに、市町村の分別ルールに協力してリサイクル率を高めることを目指しました。
 私はこの法整備のプロジェクトチームの一員として議論を先導しました。各地の自治体のゴミ行政の現場で体当たりの研究をしてきた知見はとても役立ちました。一方、現場の実態に照らせば、リサイクルを進めるにはまだまだ不充分でもありました。


負けるといわれた横浜市長選挙に立つ
 2002年(平成14)、横浜市長選で初当選しました。99・9%以上負けるといわれた選挙でした。3期目の衆議院議員だった私が、なぜ100%近く負けるという選挙に出馬するに至ったのか。4期目を目指す現職市長には自民党、公明党、民主党(当時)の与野党が相乗りし、各種業界団体、労働組合、宗教団体などあらゆる組織・団体も推薦を決めていました。
 万全の現職に対して、選挙2か月前になっても対抗馬は現れず、このままでは現職と泡沫候補だけの無風選挙となる、そんな状況下で私は数人の横浜市議会議員から出馬要請されました。私が出馬すれば選挙戦になり、不出馬ならば事実上選挙がなくなる―決断を迫られ、悩んだ末に出馬を決断しました。
 鍵山秀三郎相談役をはじめとする支援者に、その時の心境をこう説明しました。「地球環境を語りながら目の前のゴミを拾わないのでは、言っていることとやっていることが違う。わが国の政治を改めると言いながら、足下の横浜市の問題を見て見ぬふりはできない」と。
 当時の横浜市は、大小の公共施設が次々と建設される〝箱モノ行政〟で財政の悪化が問われ、市の財政は6兆円超の大借金状態だったのです。こういう状況を前に、勝ち目がないから行動しないのでは、足下のゴミを拾わないのと同じだということです。
 選挙戦では、一貫して危機的な財政の改善を訴え、44万7998票対42万6833票で当選し、奇跡の大逆転といわれました。


大借金の財政立て直しに奔走
 市長就任直後から、公約通り財政健全化のために奔走しました。横浜市の職員は3万4千人から2万8千人に20%削減、市営バスは22年ぶり、市営地下鉄は25年ぶり、水道局は10年ぶりに黒字転換しました。
 財政建て直しには、事業の一つひとつを改革しなければならず、それには必ず痛みが伴います。激しい反対と批判が起こりました。それでも市職員や賛同議員の協力のお陰で、就任時に6兆2213億円だった累積債務は、2期目の最終年度には5兆2573億円になり、1兆円規模の前例のない純減が達成できました。
 市長就任時から、ゴミ問題に取り組むことは心に期していました。それは、増える一方のゴミを減らし、ゴミが減れば財政健全化にも役立つからです。
 しかし、人口347万人(当時)の日本最大の都市で、効果的なゴミの処理・処分のシステムに改めることは至難だということも十分理解していました。難しい問題は、なおさら早く着手しなければ実現しません。就任の年に、ゴミの削減について市役所内で議論を始めました。まず担当局の清掃局長らにゴミの減量への私の問題意識を伝えました。

横浜市長選挙で初当選(2002.3.31)


横浜市のゴミの出し方「混合収集」
 横浜市のゴミの収集は、私が子どものころから変わらぬ「混合収集」―市民はあらゆるものを一緒くたに捨て、それらすべてを焼却場で焼き尽くす、市民にも行政にも最も楽な方法でした。月に一度の粗大ゴミの日以外は、生ゴミから瓶、缶、紙、衣類、乾電池に至るまで、週3回収集し、これらを一緒くたに燃やすのですから、大容量かつ有毒ガスを完全除去できる高性能の焼却炉が必要です。これには、多額の税金を使います。
 さらに、あらゆるモノを袋に入れて出すだけでは、市民のリサイクル意識は希薄なままです。私が子どものころはちり紙交換の車が頻繁に回ってきて、新聞紙などはトイレットペーパーに交換してくれましたが、それもめっきり来なくなっていました。

市職員に問題意識を伝え宿題を出す
 私は清掃局長らに、地球環境問題が問われる今日、「ゴミは市民生活の出口、環境破壊の入口」だとして、ゴミの削減・リサイクル実現のための方法を考えてきてほしいと伝えました。
 ひと月後に出てきた答えは、スーパーの店頭で、瓶や缶、発泡スチロールトレーなどの回収を増やすというものでした。これではリサイクル意識がある市民の協力だけであり、効果は極めて限定的です。
 ただ私は、こうした答えが返ってくるだろうと予想していました。私は、市の職員がどういう意識で何を提案してくるかが知りたかったのです。私は全国のゴミ処理行政の現場を研究していましたから、リサイクルのためにどのような取り組みが必要か、およそ頭の中に描いていました。
 再度清掃局長らに宿題を出しました。仮にゴミを半減させるならばどうするか議論してもらいたい、その際予算と仕組みの制約はなしで考えてほしいと伝えました。


「それは無理です」
 また1カ月が経ち、答えが返ってきました。今度は分別を徹底するというもので、中間処理施設の拡充などが柱でした。中間処理施設とは、西宮市で私が経験してきたような行政サイドで分別するやり方です。
 これに対して私は、3度目の宿題を出しました。中間処理施設方式は市民には見えないので、市民が買物の際に不必要な包装を断ったり、詰め替え用品を買うなどの問題意識を高めてもらうために「市民自身が分別する仕組み」を考えてもらいたいと。
 即座に職員たちから、「それは無理です」と返ってきました。なぜかと問うと、347万人の市民に分別のルールを伝え、理解してもらうこと自体が無理だというのです。町内会・自治会に未加入の市民もいる、1人暮らしの若者や学生はゴミを出す時間もバラバラ、外国人も多く暮らしている、そんな多様な横浜市民に分別のルールを伝えることは到底無理だといいます。伝わらなければ理解されず、理解されなければ分別されないと。確かにその通りです。
裏を返せば、ルールを伝え、理解してもらえれば分別してもらえるということです。ならば、どうすれば分別のルールを347万の市民に伝えられるかを考えようと話し、必要な時間と予算を議論してもらうことにしました。いよいよ大都市横浜での「G30」が本格的にスタートしました。

「ヨコハマはG30・スタートダッシュ宣言」
子どもたちと生活の見直しを呼びかけた (2003.5.30)